「わかる」とは、何か?
今日は、「分かる」とは何か?について、一緒に考えたいと思います。
まず、先人の言葉に耳を傾けることから始めてみましょう。
2,500年前の中国で
孔子は、こんな言葉を残しています。
これを知るをこれを知ると為し、
知らざるを知らずと為せ。これ知るなり
わかりやすい言葉で言い換えると、
- 知っていることを知っているとし
- 知らないことを、知らないとする
- これを知るという
です。
遠く離れたギリシアでも
一方で、遠く離れたギリシアでは、ソクラテスという人が、デルフォイの神託を受けて、様々な智者と対話を行い、ある結論に達しました。それが、
無知の知
です。
つまり、現代までその名を残し、語られている二人が「知る(わかる)」の本質について、
「知っていることは何か?」「知らないことは何か?」それを明確にすることが、「分かる」の本質である
と言っています。
どうやって「知らないことを知る」のか?
ところで、「知らないこと」を「知る」とは、どういうことでしょうか?そんなことは、可能なのでしょうか?
あなたが全く知らない用語について、知ることはできるでしょうか?
例えば、「ストレンジ・アトラクタ」という用語があります。これについては、単に「知らない」としか言えませんし、この用語がここに登場するまでは、おそらくあなたは知らなかったでしょう。
ということは「全く知らないこと」について、「知らないを、知らないとする」あるいは、「知らないことを知る」ことはできません。
あくまでも、私たちが「現在、知っているつもり」になっていることにスポットライトを当てて、どこまで理解しているか、どこから先はわからないか?の境界線を引くことが
- 知ることを知る、知らぬを知らぬとする = 分かる
です。
昔、漢字を考え、当てた人は天才だったと聞いたことがあります。物事の本質を知って、漢字を決めていることに、いつも驚かされます。
哲学者の問い
クリエイティブ・クエスチョン講座の中で、「哲学者の問い」というワークがあります。このワークは、まさに「境界線」を引く能力を鍛えます。
その鍛える方法は、以下の通りです。
例えば、「自然について、無知の知」をするには、
- 自然と非自然をホワイトボードに書き出す
- 具体例を挙げて、どちらに入るか?を考える
- どんどん境界線に近づくような例を考えていく
- 境界線の定義をしてみる
- 全体を俯瞰する
ということをします。
「自然」「非自然」を分けるを例に考えてみる
例えば、「事務所の前の花壇に、どこからか飛んできたタンポポの種が着地して、花を咲かせた。それは自然?それとも非自然?」とします。
どちらでも、構いません。できれば、考えすぎず直感で答えましょう。例えば、自然とします。次に例を出します。今度は、ちょっとひねってみましょう。
「実は、そのタンポポの綿毛は、男の子が別のところで引っこ抜いて、フーーーとしたものが入りました。それは自然?非自然?」
そうすると、うーん、どちらだろうと考えて、エイヤーとします。例えば、ここでも「自然」と出たとします。では、もうちょっとアイデアを出してみましょう。
「フーーとしたのは、花壇に入ることを狙っていたとしたら?」
すると、もしかしたら「非自然」と思うかもしれません。
では、次に「この定義よりも、自然に近づくような例」を出してみます。
このように繰り返して、いろんな具体例を出していくことで、「自然と非自然の境界線」を明らかにしていきます。
境界線 = 前提、定義、仮設、世界観
このような取り組みの後、「ここでの自然の定義は?」と考えてみます。すると、人の意思が入って何かが起こっているなら、非自然とするのかもしれません。
しかし、そうやって定義すると、ふと疑問が湧いてくるかもしれません。
「人って、そもそも非自然なのか?」
こうやって考えていくと、「知らない」がはっきりしてきます。自分はここまでは、知の地平を押し上げたが、この先はまだ知らない。そんな感覚が芽生えてきます。
これが「知るを知る、知らぬを知らぬとする」という境地です。
とは言え、聞くだけでなく、やってみないことには実感できないと思います。このような知の地平にたどり着くまで考えられた時、人は自信を持ちますし、軽率に誰かの意見をわかったふりして、反論したりしません。
自分の論理を明確に理解している状態です。
この境界線を「前提」とか「定義」とか「想定」とか「仮説」とか言います。または、世界を見るフィルターや色眼鏡と呼ばれたりします。
自分が、どんなフィルター、メガネをかけているか?そのメガネの特性、限界、効用を知っている人を
- 大人の知性の3段階目、「自己変容型知性」
と呼ばれたりします(参照 : なぜ人と組織は変われないのか、ロバートキーガン)。
また「世界観」と言っても良いでしょう。相手の世界観を素早く知り、自分の世界観を自覚し、二つを融合する力を持つ人が、優れたファシリテーターであり、リーダーであるとも言えます。
これを「問えば正解」ではない
この哲学者の問いは「・・・・とは、何だろう?」というテンプレートの問いをすることとは、全く違います。
哲学者の問いと呼んでいるプロセスの中で、様々な問いが生まれ、知の地平を切り開くことが起こるものです。
研究や、激しい議論に身を置いた人なら、馴染みのある感覚です。ですので、「こう問えば、答えが降ってくる魔法の問い」ではありません。
衝突事故の多いインターネットの世界
ところで、あなたは、ブログを書いていますか?あるいは、Twitterをしていますか?私は、ほとんどしません。メールマガジンはよく書いていましたが、最近、ブログを始めました。
すると、ちょっとその文化に驚きました。
見知らぬ人に、ちょっとした衝突事故を起こされるのです。ひとの記事対して、しっかりとした理解もなく、論理的な展開もなく、決めつけの批判コメントを残す。しかも、独断と偏見だけで。
例えば、相手の教材や、やっていることについても、何の理解もなく決めつけでコメントする。あるいは、「こいつApple信者だ」とか(別にいいんですけど :))
ちょっと異質すぎて、どう対処していいか不明ですが・・・(ほったらかしています)
人の振り見て我がふりなおす
しかし、ちょっと考えてみれば、私たちは「インターネットの世界だけでなく」、自分の理解を世界の唯一の見え方だと思って、お互いに違う「自然の定義」を持ったまま、会話をしている可能性があります。
特に「一緒に仕事をしているひと」や「一緒に生活しているパートナーや家族」と、自分の定義を共有し、定義を柔軟に変えながら、話すことを怠っています。
この小さなズレが、誤解を生み、世界を複雑にしているのかもしれません。
自分を深く知ることでもある
さて、この哲学者の問いは、様々な方向に向けて使うと、自己を知ることになります。つまり、「世界の見え方 = あなた」です。詳しく説明すると、長くなりそうなので、割愛しますが、釈迦の「縁起」という考え方が端的に表しています。
この哲学者の問いと、ゼンローグという対話方法をうまく組み合わせると、
- 部下と有意義な対話ができたり
- 紛糾する会議で、新しい発見を次々起こせたり
- 多様な価値観を、創造性に転換する
ということができます。
続きは、お近くの「といてら」で
このような新しい、最先端の学びを、身近に提供していこうというのが、「といてら」の目的の一つでもあります。
是非、あなたのお住いの近くの「といてら」を探してみてください。
- クリエイティブ・クエスチョン
- ゼンローグ
を体験してください。
そして単に「何かを学んで、家に帰る」のではなく、一緒に学ぶ仲間を見つけてください。
そこで出会った仲間とともに、哲学者の問いを続けてみてください。
単に「ある質問を繰り返せばいい」というものではなく、骨太な「問い」ですので、一人で自問すると辛いですが、一緒に学べば、刺激的でわくわくするものに変わります。
学ぶコミュニティが広がっていったとき、世界はもっと面白くなると確信しています。