ファシリテーション・レジュメ

FILM for Teacher

教える人のための学習理論

Teaching to Learning

教えることから、自ら学ぶへ

現代教育は、とてもうまくいきました。
その成功こそが、現代の問題を引き起こしています。

その結果、あらゆる教育が変わることを切実に求められています。その一環として、アクティブ・ラーニングが提唱され、議論されています。

このような流れを一言で表すなら、「Teaching to Learning」つまり、教えられる・教えることから、自ら学ぶ、学習者を中心に置くことが求められています。

ここでは、教育の起源から、現代の問題を簡単に考察し、私たちが目指すビジョン、貢献について記します。

Success and Dilemma of current system

現代教育の成功とジレンマ

現代教育の始まりは、産業革命に起源を見ることができます。農村部から、都市の工場に流入した労働者たちに、単純労働を教えるために考案された「教え方」が、現代教育の土台にあります。

そして、この単純労働者の生産性を著しく向上させたものが「科学的管理法」です。

科学的管理法では、熟練工が長い時間をかけて手に入れた高い生産性を可能にする行動を分析し、分解し、再構成することで「教えられるもの」に変えます。そして、分解された行動を反復練習によって記憶させることで、短期間で熟練工※と同じ仕事ができるようにしました。

(※注意: 現代の熟練工、いわゆる「匠の技」を持つ労働者のことではありません。単純労働を長い年月かけて、効率良く行っている人を指しています)

現代教育の多くも、この「作業への科学分析と再構成」を活用することで、ひと昔前の大学院生が行う微分積分の計算を高校生が行えることが可能になりました。また、民間の教育機関では、小学生高学年でも、早ければ微積分の計算ができるようになる事例もあります。

このような成果は、比較的早い段階で、子供達に識字能力と基礎的な計算能力を与えることで、応用的な分野を学ぶための準備をさせることに一役買いました。

その結果、多くが「高校卒」であっても、高度成長期を支えるだけ十分な能力を社会で身につけることが可能になりました。

この成功をさらに推し進めたことが、現在の教育の問題を引き起こしました。

Structure of Dilemma

なぜ、自分で考えられない教育になったのか?

現代社会では、高度に進んだ分業化と作業の分析能力の向上により、単純労働者の数は年々減り続ける一方、生産性は伸び続けています。農業従事者が10分の1に減る一方で、十分な食料資源の生産ができています。

その結果、「正しいやり方」を「繰り返して覚える」ような仕事は減り続け、雇用者を生み出すことができなくなっています。またサービス労働でも、徹底した仕事の分析と情報システムを導入により、特別な技能を必要としないことで、低賃金で取り替えの効く労働者を求めるようになりました。

その結果、コスト重視のサービス労働においては、日本においては低賃金でも、母国では高給となる外国人労働者が担うようになっています。

このような中、残る仕事は「高度なサービス労働」あるいは「知識労働、準知識労働」となります。これらの仕事は、「教えられるのを待たず、自ら考え行動し、学び続けること」が求められます。

ところが、産業革命以後の専門家が分析した「正しい行動」を「繰り返すことで覚え」、機能させる教育になれた子供たちは、他の方法を知りません。

さらに、一昔前なら「一握りの人の専門知識」であった、統計手法が誰でも使えるようになり、民間の塾や予備校では、「点数を取れる、学習カリキュラム」を教える側が作れるようになりました。

また、大学進学が特別なものでなくなった現在、よりランクの高い大学に進学させようと、親側も、「数値化できる成績を、正しいやり方を繰り返しで実現する教育」を良いものと評価する傾向が、強まってきています。

このような結果から、「自らの学び方」に無自覚で、与えらえれた学び方、アプローチを盲目的に繰り返す行動パターンを社会全体で強化しているのが現在です。

Dilemma between Teaching and Learning

見える学力と、見えない学力のジレンマ

このような問題の構造については、多く議論されてきました。そして、良識ある人たちは、「いわゆる見えない学力」の向上を訴えてきました。そして、大学の試験の方法を再検討するなどの対策が始まっています。

また、ほとんどすべての先生たちは、「子供たちに、自ら考える力をつけてほしい」と言います。親も同様の望みを持ちます。

ところが、次に出てくる言葉は、「しかし、それでは良い進学ができない」「今は、仕方なく、従来の方法をとるしかない」です。

多くの人が、「自ら学ぶ」と「教えることの効率」の間にジレンマがあると考えています。しかし、それは本当なのでしょうか?

私たちが構築したFILM学習理論と、その実践的において言えることは「従来教育を大きく変えることは理想だが、必ずしも必要ではない」ということです。

Who should have responsibly of learning?

学習の責任を、学ぶ側に

私たちは、学ぶ側を無知で、未熟で、無力な存在とみなす傾向があります。ところが、学ぶ側は、教える側が思っている以上に、自分のことについて知っています。ただ、そのことについて聞かれないし、自分のことについて考えることを推奨されもしないため、やがて「教える側の言う通り」に行動するようになるだけです。

これは、FILM学習理論で明らかにした「学習とは、個人の経験を自己組織化する現象」によって説明が可能です。

私たちは、もっと積極的に「学ぶ側に、自らの学び方」について注意を払わせ、どう学ぶべきか?を自らで考えることを奨励する必要があります。つまり、学ぶ側に、自らの学ぶことについての責任を持たせることが必要です。

具体的には、現状の教育を「自分の学び方を改善する良い機会」として、利用してもらえるように、「様々な学び方を実験させ、自らの学び方のバリエーション」を増やす期間とすることが必要です。

このような行為は、教えることではなく「ラーニング・ファシリテーション」です。

FILM for Teacher

FILM理論を教室に持ち込む

FILM学習理論は、従来の教育内容であっても、十分に「能動的な学び方」を推進できることを示しています。今ある教育の全てが悪いわけではありません。ものの見方、アプローチ方法を変えるだけで、十分に機能することが期待できます。

ドラスティックに変更することが難しい場合でも、今日から「新しい学び」を実現することが可能です。

さらに、優れた教師の暗黙知であって再現性が乏しいノウハウではなく、体系としての知識であるFILM理論なら、多くの人が学び、応用することが可能です。

私たちは、教える側に、私たちの取り組みを積極的に提供しています。



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