なぜ、苦手教科が生まれるのか?
あなたは、苦手な科目ってありますか?
少なくない数の人が、
- 数学が苦手です
- 絵が苦手です
- 音楽が苦手です
- 運動が…
と言いいます。
一方で、大人になって、趣味として初めてもので、「決して上手ではないけど、好きなもの」はあると思います。人から、どう思われようと、好きで続けているもの、うまくはないけど、楽しんでいるものは、あるものです。
ところが、「苦手科目」に関しては、それらのことは、「好きですか?」と聞くと、「嫌い」と答える人が、圧倒的に多いです。
なぜでしょうか?
今日は、この「苦手」「嫌い」の原因について、一緒に考えてみたいと思います。
生まれつき、嫌いな科目なんてない
様々な研究成果を照らし合わせつつ、多くの学生との交流で発見した、「苦手意識が生まれるパターン」があります。
それは、「外部からの批評」です。ここで重要なのは、「批判」ではなく、「批評」と書いていることです。
批判といえば、基本的に「イマイチだね」「下手くそ」とか、マイナス評価を与えられるイメージですが、批評には、「プラスも、マイナスも」含みます。
別の言葉で言えば、「批評とは、外部から頼んでもないのに、評価を与えられること」です。
この外部からの批評によって、特定の科目が「苦手」「嫌い」「思い出したくもない」となりえます。
ある日、絵を描くことをやめました
母の記憶では、私は小さい頃から、絵が好きだったようです。
母は、保育士をしており、平日も忙しく働いていました。結果として、子ども達だけで遊ぶ時に、没頭しやすかったのが「絵」です。
自分が見たもの、体験したものを絵にして、想像力を羽ばたかせ、様々なことを書いていくのは、とても楽しい作業だったと、なんとなく覚えています。
また、毎週のように祖父は、私を山登りに連れて行きました。祖父も絵を描く人(建築士でした)で、一緒に山の絵を描いたり、楽しい思い出が沢山あります。
就学以前、正規の美術教育を受ける前に、実体験として「自由に描く楽しさ」を知りました。
私の場合、小学生の頃には、他の子供達と比べ、圧倒的に絵を描く時間が長かった可能性があります。
しかも、大人達は、私の絵を見て、微笑ましく、「何を書いたの?」「へぇーなるほどー」「楽しいねー」と共感してくれました。
大人になってから聞いた話ですが、私の両親は「子供がやったことに、批評をしない」という教育方針だったようです。
つまり、小学生で美術の授業を受ける前に
- 大人の期待に応えず、自由に絵を探求する
- 様々な対象を描く
- それも、他の子供よりも多い時間
という結果、単純に、少しだけ絵を描くことが、抜きん出ただけです。
展覧会に出たことが、マイナスに
小学校の課外授業で、「米を作る」という授業がありました。収穫の様子が、なんとも美しくて、今でも印象に残っています。
稲を刈るために、田んぼに座り込むと、稲穂に囲まれ、別の世界に入り込んだような感覚になりました。
その様子を、絵にしようと思い、小学校の美術の時間に、その体験を何度も思い出して、稲を大きく、覆い重なるようなイメージで書きました。
その絵が、先生の目にとまり、最終的には、市のコンクールに出展されることになりました。
このような経緯を聞くと、「絵が大好きになる」と思うかもしれませんが、逆でした。
大人達が、私の絵に勝手な批評をしてきました。
- 稲穂の躍動感がすばらしい
- 自由に色を使って、重ねていることがすばらしい
- 稲穂に影響された帽子の色が味がある
などなど。
稲刈りの時、私の被っていた帽子の色は、絵の具の水色が、ピッタリの鮮やかな水色でした。ところが、私は絵の具の水色を紛失して、仕方が無いので「藍色を薄めて使っただけ」だったのです。
それを大人たちが、やたら褒めるせいで、「後ろめたい気持ち」と「批評した大人たちに、そう考えたんです」という小さな嘘をつきつつ、期待に応えるような工夫をしなくてはいけない・・・と思うようになりました。
美術の先生の心ないひと言が、筆を折る
更に追い打ちを掛けることが、中学校で起こりました。
美術の宿題で、「何かを描いてこい」という課題がありました。時期は冬で、家でこたつに入りながら、どうしようかなーと、考えていました。
すると、目の前のミカンが目にとまり、よく見ると、背景のこたつの机が同系色で、見れば見るほど、境が曖昧ということが、新鮮に感じました。
そこで、「曖昧な、ミカンを表現しよう」と思って
デッサンしました。中々、難しかったですが、自分なりに、表現できたと思っていました。
ところが、宿題を提出すると、先生が
「いいか、絵を描くときは、しっかり輪郭を描くんだ。こうやって・・・」
と私の絵に、ペンを入れて指導してきました。私は、がっくり、しました。
その後も、「デッサンまでは良かったのに、色を塗ったら台無しだね」とか、(色を出すのが難しいから、今で言う「水墨アート」を自分なりに作ってチャレンジしたのに)言われて、すっかり「絵が嫌い」になりました。
今でも不思議ですが、あの美術の先生の教育の目的はなんだろう?と思います。
- 正しい絵の書き方を教える事?
- 一部の優れた画家を生み出すためのフィルター?
もし、美術の先生が、私をそっとしておてくれて、私が色がうまく作れないなら、作れるようにサポートしてくれたら、もしかしたら、「日本を代表する画家」になっていたかも知れないのに(笑)。
こんなこと 日常茶飯事です
先生達を一人一人、つるし上げていっても、現状は変わりません。
彼らも、「良かれ」と思って指導していたと思います。でも、子供の心には、よくない影響を与えただけです。
もし、あなたが数学が苦手だとしたら、
- 失敗したり、混乱したときに
- 外部から、余計な批評をされた(○、×を付けられた)
ただ、それだけのことです。
数学者だって、分からない数学はいくらでもあります。分からないことは、当然です。
数学者は、数学という分野で、 わからないことに対して、「どう考えるか?」「ああでもない、こうでもない」と楽しみながら膨大な時間、考え続けて結果の人というだけです。
たまたま、問題が解けることがあったりする。多くは、すぐには解けない、だから楽しんで考えられるし、没頭できる。
ただ、それだけのことだと思います。
もし、教育側が、一言、
- 「今、楽しんでいる?」
- 「君が楽しんでチャレンジできるように、先生は何を手伝えるかな?」
と聞くことができれば、世界は一変するのでは?と思います。本当に簡単なことです。
多様性のある教育
でも、多くの先生たちは、「大人が用意した特定のゴールに達せさせなければならない」と思っています。
人の成長は、人それぞれです。また、学び方も、それこそ、
- 一人で学ぶ
- 人とコミュニケーションする
- 図解で学ぶ
- 探求する
などなど、多種多様です。こんなことは、もう30年も前に指摘されています。ところが、たった1種類の学び方を矯正するのが、現代の教育です。
しかも、社会に出ても、学び続ける必要がある、この現代において、
- 社会人教育でも、同じ問題が起こっている
と私は考えています。
批評しない
もし、あなたに子どもがいたら、是非やってください。子どもが絵を描いたら、
「上手いねー、天才」「うーん、こうしたら?」と、褒めたり、勝手なアドバイスをする前に、「相手に聞いて」ください。
「何を書いたの?教えて?」
そして子供が、自分なりに説明を始めます。
自分なりに考えを言葉にしていくことが、思考を整理し、反省し、次のアイデアを考え出すプロセスになります。
つまり、「教えられる」のではなく、「自分が主体性をもって学ぶ」プロセスになります。
toiee Labの講座は、生徒が主役です
当然なのですが、toiee Labの講座は、生徒が主役です。
一人一人、違う経験、知識があって当然です。
学び方も、現在のスキルも違います。だから、多様性を大切にしています。
課題に、チームでチャレンジすることで、多様性を使って、解決を図ります。結果、誰が一番とか、到達目標とかは、二次的な目的です。
最大の目的は、「あなたが、扉を開け、学びの場に参加し、そして、家路に就くとき、前に進んだ」と自分自身で思えること、です。
そして、このような目標設定で、教育を行うと
- 教わったこと以上を学ぶこと
- 教室を出ても、学び続けること
が可能になり、あっという間に「先生越え」をします。
教わった以上を学べなければ、教育をしたことにはならない
これが、私たちの モットーの一つです。
学ぶときのアドバイス
- 他人と比べない
- 常に過去の自分と比較するだけ
- 他人と比べる時は、単に自分の成長のために
と意識をしてください。
そうすれば、もっと楽しく、多くを学べます。
そして、次へチャレンジする勇気が湧いてくると思います。
toiee Labは、そんな「学び方を学び」ながら、あなたが身に付けたいスキル、知識を、短期間で学べる場所です。
よかったら、遊びに来てください。
最後に
今は、楽しむということを大切に、iPadで楽しく絵を描いています。美術の先生に恨みはありません。あの経験があって、私は教育や学ぶということに興味を持ったのだと思います。
今では感謝しています(反面教師?)
楽しんで絵を描いています