「問うこと」とは、何か。なぜ、学習に必須なのか?
toiee Labの学習理論のベースは「人の学習を多段(多層、自己相似形)のフィードバック制御システム」として捉えることにあります。もう少し引いてマクロな視点では「メンタルモデル」という形で、人の学習を捉えます。
この視点によって、ラーニングファシリテーション、ラーニングデザインを体系的に整理し、経験や勘の前に「しっかりとした論理」を通じて学習を理解し、目の前の参加者(学習者のこと)に、働きかけをします。
この記事では、メンタルモデルという視点を使って
- 問いとは何か?
- 問う行為とは何か?
- なぜ、問うことが学習につながるのか?
を説明します。
メンタルモデルとは何か?
メンタルモデルを日本語に訳すと、
- メンタル = 心理的、心の中、頭の中
- モデル = 模型
となります。つまり「頭の中の模型」という言葉です。
模型とは何か?
模型とは、本物を参考に、似せて作られたものです。
船の模型を例に考えてみましょう。船の模型は、船そっくりですが、本物の船ではありません。例えば、40分の1サイズの模型となると、各パーツそっくりの、そこそこ大きな船の模型になります。
では、この模型を海に浮かべられるか?というと、浮かばないことの方が多いでしょう。素材も違うければ(主にプラスティック)、浮力計算、浸水しないための各種の機能を持ち合わせていないかもしれません。
一方で、船を設計するときに作成する模型は、最終的に出来上がる船とは見た目が違うかもしれません。しかし、体積と浮力の関係や、バランスなど「構造上は同じ」ようにします。それを使って、激しい波でも浮かんでられるのか、倒れかけたときに、どれぐらいリカバーできるのか?など実験を行えます。
このように「模型」は本物ではありません。用途に応じて、本物の「ある側面」を必要十分に切り取ります。
ここが最大のポイントです。
模型、モデル化は、本当の現実、現象の「ある側面を、必要十分に切り取ること」です。それが、モデル化です。
メンタルモデルは、何をさしているのか?
上記の模型、モデル、モデル化を踏まえて考えれば、メンタルモデルとは、「自分たちの身の回りの世界」を、私たちが生活していく上で「必要十分」に、ある側面から切り取ったものです。
いわゆるコンピューターシミュレーションとかなり似ています。例えば、火災の広がりをシミュレーション(模型を使って、実際にどうなるか試してみること)するとします。CGで家をレンダリングして、燃やしてなどしません。
なんらかの施設内であれば、正方形のグリッドに分割して、それぞれ燃えやすい、燃えいにくいなどの設定(確率的な変動を与える)や、燃える方向性を与えたりします。本物そっくりをコンピュータの中に再現などしません。
(そのうち中学校3年生ぐらいには、「コンピューターシミュレーション」を授業で取り入れて学んで欲しいと思います)
つまり、私たちの脳も同じように「本物の全てを取り込むことはしない」です。
必要十分なこと細かさと、必要十分な要素だけを取り込んで、「世界の模型」を作っています(このように考えると、うまく説明ができます。それが理論というものです)。
目的から考えれば、メンタルモデルは理解できる
私たちの脳はフィードバック制御システムの拡張版のようになっているという仮定から考えると、自ずと導けることがあります。それは、「目的がはっきりわかると、手段を理解した気になれる」ということです。感情として安堵感が得られます。
ハウツー的に言えば、「目的を理解すれば、手段は簡単にわかる(少なくとも、大外ししない)」ということです。
そこで「メンタルモデルは、なんのためにあるのか?」を考えてみましょう。
メンタルモデルは「次何が起こるか?」を予想するために作られると考えれば、スッキリします。私たち人間(だけでなく、生物)は、未来を予想することができれば、生存確率を上げられます。
例えば、獲物が飛んでいるとします。それをキャッチしようと思えば、次のポイントを予想できれば、精度が高ければ捕獲できる確率が上がります。逆に、予想ができなければ、捕獲率は下がります。
基本的に生物は、進化の過程で身につけたフィードバック制御型の行動様式や、ヒューリスティックな行動様式を使うため「メンタルモデル」というほどのものは、持ち合わせていないと思います。
しかしながら、高等動物になれば、後天的な学習によって、行動様式が変わるため「メンタルモデルを構築している」と言えます。
難しい話は、さておき、ポイントは
「メンタルモデルは、未来を予想するために作る」
メンタルモデルが修正されるとき = 学習
このメンタルモデルは、どうやって作られるのでしょうか?
生まれつき、ある程度、型を持っているでしょう。このような型といえば、ノーム・チョムスキー「生成文法」にあたります。もともと、どの言語にも共通する基盤があり(生成文法)、後天的な学習によって、言語ごとに違うルールを覚える(個別文法)という考えです。
このような生まれつきのものがある、ない。あるいは、どれぐらいの割合であるのか、などは、議論が分かれています。
しかし、人の学習を促進するという観点では、現在のところ、生まれつきの型、後天的な型について議論する必要はありません。
シンプルに、以下のように考えます。
- こうなったら、こうなると予想をする(無意識で、なぜならばを考えている)
- 実際にやってみる(あるいは、こうなったらが起こる)
- 実際の結果と予想を比較する
- もし、実際の結果と予想があっていれば「メンタルモデルを強化」する。間違っていれば、その現象をうまく説明できるように、モデルの修正をする
というメカニズムが常に働いていると考えます。
例えば、妻に「家に帰るなり、いつもありがとう。感謝している」と面と向かって言ったら、感激してくれるだろうと予想をしたとします。実際にやってみたら「あっそ」苦々しい顔で流されたとします(我が家のことではありません)。
この時、メンタルモデルを修正する必要があります。あなたが思っているほど、お互いに信頼関係や、大切に思いやる気持ちがなくなっているのかもしれません。そしてその原因がわかっていないという、重大な情報が得られたわけです。
今度は、また「それよりも、現実として家事を手伝ってよ。忙しいんだから」と思っていると予想したとします。これがメンタルモデルです。だから、「ありがとう」では、不服で、「手伝うよ」と言ったら「お願い」って言われるかと予想をします。
確かめる方法は、実際にやってみることです。もし、「じゃぁ、お願い」と言われたら、やっぱりそうか・・・とメンタルモデルを強化することになります。
メンタルモデルというコンセプトは、すごく便利です。学習を捉える時に使えます。
もし、「予想が全て正解している」のであれば、メンタルモデルを修正する必要性はありません。問題がないのですから、直すことはありません。つまり、学習は必要なく、行動をすれば良いのです。
一方、学習をしたいと思えば、つまり、もっと向上したいと思えば、「予想外」に出会う必要があります。もっと、予想を細かくしてみて、調査してみたり、条件を変えてみたりして、メンタルモデルの甘さを認識できるようにします。
そうすれば、「学習」が起こります。
仮説を立て直して、実際にやってみて(あるいは論理を展開してみたり、事例を比較するだけかもしれません)、見聞きしたものを全部、うまく説明できる「世界の模型」を作ろうとします。
これが学習です。
生存競争とメンタルモデル
ところで、メンタルモデルを「修正する」のは、本能レベルで行います。エネルギーが出て、モチベーションが上がって、内部報酬系が働きます。なぜなら、それは生存に関わるからです。
例えば、自分の寝床の近くで、「トラ」のような影を見たとします。でも、トラかどうかわかりません。単なる見間違いか、大きな岩かもしれません。
そんな時どうするかといえば、「確かめる」わけです。
「なんかトラっぽかったなー、まあいいや。寝よう」としたら、寝ている隙を突かれて食べられてしまいます。こんな無防備だと生存確率が下がってしまいます。
つまり「予想ができないもの」があれば、それを「予想できる状態にしておく」ことを、無意識に(生存するために)求めると考えられます。
- 見聞きしたものを、うまく説明しきれない状態、メンタルモデルに不備がある状態はイヤだ。メンタルモデルを修正して、うまく説明できる状態にしておきたい
そのようなメカニズムが働きます。恒常性維持機能と捉えても良いかもしれませんが、メンタルモデルの不完全性を修正すると考える方が、より現実的です。
問うと、メンタルモデルが不完全になる
では、以上の議論を踏まえて「問う」について考えてみましょう。
「問う」というのは、答えがわかっていないものを生み出す行為です。あるいは、もうわかった気になっているものに対して、まだわからないことってないか?まぁ、今はいらないって無視したことってないか?もう一回、よーく観察してみようぜと、促します。
つまり、説明できない何かを探そうとする行為です。
この「問い」が、個人的なものとして発されれば(他者から無理強いされたわけではなく)、それは好奇心を呼び起こします。好奇心とは、メンタルモデルを埋めたいという本能からくる欲の高次な状態だと考えられます。
自発的に「問う」こと、問いをどんどん作っていくことは、人間が持っている自然な学習の機能を働かせ、エネルギーも生み出してくれます。
もちろん、突拍子もない、メンタルモデルの穴埋めをしたいと思わない、適当な問いでは何も起こらないでしょう。しかし、たくさんの問いを立ててみることで、いろんなレベルの好奇心が生まれるでしょう。
そして、穴埋めされ切らない状態をずっと維持しておけば、次々といろんな物事が吸収できてきます。
問いのしつこさは、すごい
誰もが経験があると思いますが、個人的に素朴に「あれってなんだろう?」と発した問いは、場合によっては、何年も経っているにも関わらず、目の前に答えが飛び込んできたら「あ、答えだ!」と思って、釘付けになります。
本当に不思議です、人間の脳は。
例えば、私は、小学校に通うか、通わないぐらいの時に、父の車に乗っている時、「なぜ、山は近くでは緑なのに、遠くでは青く見えるの?」と疑問に思いました。その時、父と母は二人で「おぉ、やったー!」と思ったそうです。答えを話すのではなく、なんでだろうねー、色々考えてみたらーと言ったそうです。
そうやって答えを与えられず、刺激だけ増やされた結果、疑問は残るわけです。そして、何年か後に、宇宙から見た地球は青いことを知ります。でも、地球の写真をみたら別に青くない。青い部分といえば、「大気の部分」だなと。どういうことなんだろう?と思いました。
そうやって疑問が疑問を呼びました。
今でも鮮明に覚えているのですが、中学校の理科の時間に、先生が雑談で「窒素は青く見える」「二酸化炭素は赤く見える」という話をしました。だから、火星は赤いという話などを聞いている時、
「あぁ、そうか。空気のせいだ」
と答えが繋がって、声に出してしまって、その感動を人に話したら、「亀やん、いっつもやけど、何考えてるか、全然わからんわー。でも、わかってよかったねー」と言われました。
問うをしっかり行えば、そして何よりも大切なことは「楽しんで」問うことができて、その答えが出ないもどかしかさを、優しく抱き続けていれば、たくさんの出会いがあります。
なんでも、すぐに答えを出そうとする必要はありません。
チーム学習と問うこと
ところで、いつもチーム学習の話になってしまうのですが・・・。チームで「問う」と何倍も面白いです。次から次へと、いろんな問いが出てきます。ワイワイ、ガヤガヤ、問いを出して、へぇーなんでだろうね?っていうだけで楽しい。
答えを出せなくっても、そして、不完全な仮説で終わっても「楽しい」って感情が芽生えます。
私たち toiee Lab は「問い」という言葉から作りました。そして、音は「toy」つまり、おもちゃという音にかけています。ちなみに toi lab だとそのまますぎるので、 ee をつけました。
これは、endless enhancement を意味しています。終わりなく促進みたいな意味です。つまり、ゲーデルの不完全性定理に示されるように、どうせ完璧な説明は得られません。問いを抱いて、ee するしかないわけです。一生。
そこで、toiee といました。それをベースに研究し、チーム学習を広げるということで、toiee Lab としました。
なお、ee は「チーム学習」も表しています。
ee に目をつけたら笑っている人が二人になりますよね?これがチーム学習を表しています。ニコニコ、話、問うている感じです。
今日は、学習理論の一端を「問う」ということから説明しました。
問うことの本質、メカニズム、現象がわかってくると、ファシリテーションのやり方が変わってきます。子供達に対する接し方や、ラーニングデザイン(授業の作り方)も変わってくると思います。